REMINISCENCE

ストレス

ストレス

  旅に出るといつもストレスを感じる。旅に出ればどこからともなくストレスが現れ、それはまるで床に落とした影のように一寸の遅れもなく私に付き纏うので、あまりに鬱陶しく感じることもある。 しかし、ストレスとうまく付き合うことは、旅を楽しむためには必要不可欠といっていいだろう。旅先で見えるもの、確実にそこに存在していたものが、ストレスと仲違いしてしまうと途端にそれは形をなくし見落とされてしまうのだ。 とはいっても、なかなかそう単純ではなく、道中でストレスと喧嘩してしまうことも多い。旅から帰途についたあとで、旅の思い出に浸り、ストレスともっと仲良くすればよかったなといつも思う。仲良くすれば、旅の見方も変わったのにだろうと。 ストレスと手を握り合い、体を重ね、その脈絡、体温、鼓動を感じてこそ、旅の本質を理解できるのだ。だからこそ、次回の旅こそは、ストレスと友達でいられることを願う。

Mr.Sakai

Mr.Sakai

ブラジルはいまや、サーフィンのメッカである。 ここ10年で、サーフィンの世界大会でブラジル人が上位を独占することも増えてきた。それくらいブラジルの波は良いのだ。 そんなこともあり、とある日にブラジルのサルバドールに立ち寄った際、せっかくだからサーフィンをしようと思った。 黒いローマという異名を持つ古都の街並みが美しいサルバドールにも、サーフタウンという側面がある。 サルバドールのとある小さな町に着いた日、真っ先にビーチに向かう道中で、サーフボードを持っている青年に出会った。 「サーフィンしてきたの?」と英語で尋ねたら、「そうだ」という。この先のビーチでサーフィンをしてきたとのことだった。 その時、彼が「どこからきたの?」と聞いてきたので、私は「日本だよ」と答えた。 そうしたら、彼は嬉しそうな顔つきで、「僕はsakaiというんだ」と言った。 一瞬分けがわからず困惑したのだが、詳しく聞いてみるとどうやら日系4世とのことだった。 世界は広いのか、狭いのか。 たしかに、彼の優しそうな顔からは日本人の面影がかすかに感じられる。 100年以上前、地球の反対側へ旅立った彼の先祖に深い敬意を表すと同時に、sakaiという名前を彼が今も名乗っていることに対して、なんとも言えない嬉しさを感じていた。 その夜、彼が彼の母親とともに、私が泊まっている宿に尋ねてきたので、みんなで軽く雑談をした。 人と人との邂逅こそが旅の醍醐味だ、と痛感した瞬間だった。  

おじさんの背中

おじさんの背中

リオのカーニバルを見に行った時のこと。 当時カーニバルのことはよく知らなかったのだが、カーニバルがスタートしたのが夜の10時ごろ。こんな時間から始まるなら1、2時間で終わるのか。案外あっけないなと思いながら、熱気に包まれた会場でビールを飲みながらカーニバルを眺めていた。 しかし、時間が経てども経てども終わる気配がない。しまいには、時計の針は0時を迎え、そのまま朝方の4時近くまでカーニバルは続いた。 これが年に一度のカーニバルか、とその迫力の余韻にひたりながら、バスで帰路についた。 その時はリオの地方にある民家のひと部屋を借りていたのだが、家に戻ってくると民家の主人であるおじさんが、リビングでひとりぽつんと椅子に背をかけ、テレビに映し出されたカーニバルの映像を見ていた。 リビングにはそのおじさんと、奥さん、息子が一緒に写った家族写真が置いてある。しかし、その家に今いるのはおじさんと猫だけだ。奥さんのことはわからないが、おじさんもいい年齢に見えたし、息子もとっくに家を出ていたのだろう。 なんだか椅子にもたれたおじさんの背中が、家族で賑わっていたときを偲んでいるように見えて、とてつもなく切ない感情を抱いた。男は背中で語る、とはよく言ったものだ。 そして、その時に知った。ブラジル人にとってカーニバルとは家族と同じ、人生の一部なんだということを。

We are too clean

We are too clean

"We are too clean" アマゾン川のほとりにある、高床式の民家を訪れている時、一緒にツアーに参加していたボスニア人がふとつぶやいた。 日本人は昔から綺麗好き。それなのに、コロナウイルスの感染防止のため、今まで以上に手を洗うようになった。これでは、子供たちの免疫力低下は免れないだろう。 窓のない吹き抜けの家で、動物と一緒に住み、虫と一緒に住み、夜明けとともに起きる(夜更かしはするようだ)。 快適さとは無縁の世界だが、どちらの生活が豊かだろうか。日々の生活に追われているのはみな同じなのに、彼らの顔から笑顔は絶えない。

ラパスの教会

ラパスの教会

夜、ラパスの教会で礼拝が行われていた。中に数百人はいるだろうか。ほぼ満席だったが、教会の後ろのほうの席が空いていたので、そこに座って神父の話を聞いていた。 スペイン語なので、もちろん何を言っているかはわからない。ただ、その厳かな雰囲気を感じていた。 礼拝の途中で、教会のスタッフと思われる20代前半くらいの男の子が、被っていたつば付き帽子を脱いでひっくり返し、礼拝の参加者ひとりひとりに募金を募った。 観察していると、100人中100人が募金をしている。断っている人は1人もいないようだ。例外はない。信仰心を目の当たりにした気持ちだ。 払うべきか、いや、いくら払うべきか、そんなことを考えていたら、自分の番がふと訪れた。 私の前に来た彼は、私がどうしようかと迷う間もなく、私の前に手を差し伸べ、ただ拍手をして、ニコッとほほ笑んだ。そして、募金を募らずに、次の人のところに行った。 その後、しばらく放心していた。彼の心の豊かさに。彼のような優しい心を持ちたいと思った。